嫉妬、劣等感、マイナス感情。
今の時代、これらは往々にして「悪いもの」「手放すべきもの」として扱われる。 しかし歴史を振り返れば、あらゆる表現者、起業家、勝負師たちを突き動かしてきた真の原動力は、いつだってその暗い感情だったはずだ。
「恵まれない境遇から這い上がった」という成功譚には事欠かない。彼らを動かしたのは、決して無菌室のポジティブ思考などではなかったはずだ。
もちろん、自己肯定感が高いこと自体は素晴らしい。 だが、それが「自分はできる、だから挑もう」という健全な意志ではなく、「自分はできるはずなのに、なぜ周囲はそれを理解しないのか」という傲慢な他罰感情にすり替わったとき、それは果たして本当に良い感情と言えるのだろうか。
逆に、嫉妬や劣等感に塗れていたとしても、「今の自分はまだ未熟だ。だが、絶対にこの手で成功を掴み取ってやる」と刃を研ぐことができたなら、それこそが最強の推進力になる。
綺麗事のポジティブ思考は、確かに耳触りがいい。
「今のあなたで十分素晴らしい」 「無理をしなくていい、今のままでいいの」
確かに優しい。けれど、人が真に苦しんでいるのは「今の自分」と「なりたい理想の自分」との間に、埋めようのない乖離があるからだ。
現状維持は楽だ。だが、今のままで心から満足できているのなら、そもそも人は葛藤などしない。
AIや心理カウンセラーは、誰も傷つけない「今すぐ楽になる方法」をいくらでも提示してくれる。 しかし、その処方箋の受け取り方を間違えれば、人間の心の成長はそこで完全に止まってしまうのだ。
「今の自分は、まだこの程度だ。それは受け入れよう。だが、理想の自分に近づくためには、ここからどう動くべきか?」
この泥臭い自問自答こそが、健全な認知というものではないだろうか。
嫉妬や劣等感に耐えかねて、他人にそれを擦り付け、他者を攻撃して鬱憤を晴らしても、現実の盤面は何一つ変わらない。 せっかくの「自分を極限まで高めるための貴重な燃料」を、他者への攻撃という安っぽい煙にして燃やし尽くしてしまうのは、あまりにも勿体ない。
想像できることは、必ず形にできる。 あなたが思い描く「なりたい自分」は、必ず「なれる自分」なのだ。
最終的に信じられるのは、自分自身の意志だけだ。 途中で諦めるのも、他人に汚い嫉妬を擦り付ける醜い自分を選ぶのも、すべては自分次第。
もちろん、優しい言葉が必要な夜もあるだろう。それはそれで否定しない。 けれど、あなたの真のポテンシャルを引き出せるのは、他でもないあなた自身だけだ。 それはAIのアルゴリズムでもなければ、他人の無責任な慰めでもない。
あなたはこの世界に、確かに存在している。 そして、なりたい自分を想像できている。
なら、生きろ。


