水曜日の夕暮れ時、オフィスを包む淀んだ空気に身を浸していると、なんとも言えない息苦しさを覚える。 週の真ん中、すでに満員電車の通勤苦と理不尽な対面拘束によって心身のエネルギーをすり減らした会社員たちが、死んだ魚のような目でパソコンの画面を凝視している。
公益財団法人日本生産性本部が発表した調査によれば、日本のテレワーク実施率はついに過去最低の14.5%にまで落ち込んだという。 あれほど合理的で、通勤ラッシュの地獄から人々を解放したはずのリモートワークをかなぐり捨て、日本企業は猛烈な勢いで「全員出社」の監視体制へと逆戻りした。
なぜ、この国はこれほどまでに「出社」と「対面」に執着するのか。 なぜ、やるべきことをさっさと終わらせて定時に帰るという当たり前の自由が、この国の職場では罪悪とされるのか。
その背景にあるのは、単なる経営陣のITリテラシーの低さなどではない。 「目の前で部下が苦しんでいないと仕事をさせた気にならない上司」と、 「早く帰る人間を『ずるい』と引きずり降ろす同僚」と、 「自由をサボる権利と勘違いする平社員」が完璧に噛み合った、日本の精神的タコ部屋とも呼ぶべき歪んだ民族性の正体である。
成果ではなく「苦役」を求める上司のサディズム
欧米のビジネス社会であれば、労働契約とは「定められた職務(ジョブ)を遂行し、成果を納めること」への対価である。午前中で予定のタスクを完璧に終わらせたなら、午後からカフェに行こうが家に帰ろうが、誰からも文句を言われる筋合いはない。むしろ「生産性の高い優秀なプロフェッショナル」として高く評価されるのが当たり前だ。
ところが、日本企業において「労働」とは成果を出すことではない。 「同じ時間、同じ空間で、全員が等しく苦痛と服従のポーズを差し出す生贄の儀式」なのだ。
日本の管理職の多くは、部下が涼しい顔をして定時にスッと席を立つ姿を見ると、猛烈な不快感と苛立ちを覚える。 なぜなら彼らは、部下が目の前で汗をかき、ため息をつき、疲弊し、苦痛に顔を歪めている姿を見届けて初めて、「よし、今日も仕事をさせたぞ」とサディスティックな支配欲を満足させるからだ。
この苦役信仰の根底にあるのは、管理職自身の絶望的な「知性の欠如」である。 部下が生み出したアウトプットの質や、業務プロセスの真の価値を客観的に査定する専門性がない。成果の中身を判断する脳みそを持ち合わせていないからこそ、彼らが使える評価軸は「何時間椅子にケツを乗せていたか」「誰が最後まで自分の残業に付き合ってくれたか」という、最も原始的な物理的時間の測定しか残らないのだ。
「早く帰る奴はずるい」というムラ社会の嫉妬
そして、この牢獄をさらに強固にしているのが、周囲の同僚たちが放つドロドロとした同調圧力だ。
仕事をテキパキと片付け、無駄な雑談もせず、定時ジャストに席を立つ人間に対し、同僚たちは「仕事が早くてすごいね」とは絶対に言わない。 彼らの口から漏れ出るのは、陰湿な一言だ。
「あいつ、もう帰るのかよ。ずるいな」
なぜ「ずるい」のか。 自分の仕事をきちんと終わらせて帰っている人間のどこに、不公正があるというのか。
彼らにとって職場とは、成果を競い合うプロの現場ではない。「同じ苦しみを分かち合う運命共同体(ムラ)」なのだ。 雨風に打たれながら泥田を耕す農村の掟と同じで、「全員が等しく泥まみれになって苦しむこと」だけが美徳とされる。その苦行の輪から誰か一人が要領よく抜け出すことは、ムラの掟に対する裏切りであり、抜け駆けなのだ。
「俺たちがこんなに残業して苦しんでいるのに、あいつだけ楽をするのは許せない」 この醜い嫉妬と足の引っ張り合いが、全員でパソコンを開いたまま無意味にダラダラと残業し合う「非効率のチキンレース」を生み出している。
だから有能な社員は「爪を隠す」
この不条理なシステムの中で、最も残酷な割を食っているのが、本当に頭が回り、仕事のできる有能な社員たちだ。
彼らは最初に身をもって学習する。 日本企業において「能力を100%発揮して仕事を早く終わらせること」は、何の報酬ももたらさないどころか、最悪の罰ゲームを引き寄せる自殺行為であるということを。
集中して3時間で仕事を片付けたところで、早く帰れば「協調性がない」「ずるい」と査定を下げられる。 それどころか、席に残っていれば無能な上司から「おっ、手が空いたのか? じゃあこれ、〇〇君が手こずってるから手伝ってやってくれ」と、昼間ダラダラとタバコを吸って仕事をサボっていた無能な同僚の残務まで押し付けられるのだ。
早く終わらせれば、仕事が増える。 早く帰れば、村八分にされる。 どれだけ成果を出しても、給料は年功序列で無能な同僚と1円も変わらない。
この救いようのない逆淘汰の現場で、賢い人間が取るべき合理的な生存戦略は一つしかない。「能ある鷹は爪を隠す」どころか、「爪を完全に隠蔽し、無能なフリをして周囲に合わせる」ことだ。
午前中で終わる仕事にわざと夕方まで時間をかけ、適度に忙しそうな顔をして眉間に皺を寄せ、ため息をつきながらキーボードを叩き、定時を過ぎてから「ふう、やっと終わった」と席を立つ。 自分の知性と生産性を30%にセーブし、周囲のペースに合わせてダラダラと残業のフリをする。
こうして日本企業からは、真の優秀層が「死んだふり」を決め込むか、静かに退職代行を使って外資やフリーランスへ逃げ出していく。残るのは、ダラダラ残業を美徳とするゾンビだけである。
裁量を「サボる権利」と勘違いする家畜と、完成された共依存
もちろん、問題は経営陣や上司の側だけに留まらない。 労働者の側もまた、自由と自律を引き受ける「精神的な自立」ができていないのだ。
「裁量労働制」や「フルリモート」という選択肢を与えられた途端、それを「結果に責任を持つプロの自由」ではなく、「監視の目が届かないから適当に手を抜いてサボっていい権利」だと履き違える平社員が後を絶たない。
小学校から大学に至るまで、「言われた通りに前を向き、チャイムが鳴るまで席に座り、指示を待つ」ことだけを教え込まれてきた家畜型のマインドセット。自らゴールを設定し、自らを律して成果を出すという訓練を一度も受けてこなかった人間にとって、「自由」とは単なる「放縦」でしかないのだ。
管理する側は、部下を信じる知性がないから「目の前で監視」したがる。 管理される側は、自律する覚悟がないから「監視されないとサボる」。 そして、抜け駆けする者を許さない同調圧力が、その両者をガチガチに縛り付ける。
この三者が完璧に噛み合ったとき、日本独自の「出社強制の共依存牢獄」が完成する。
精神的タコ部屋からの脱出
欧米の成果主義を真似て「ジョブ型」だの「裁量労働」だのとお題目を唱えたところで、この精神構造が変わらない限り、日本企業は何度でも満員電車と着席監視のタコ部屋へ先祖返りする。
日本人が本当に恐れているのは、満員電車の苦痛ではない。 「他人の目を気にせず、自らの責任において自立して生きること」そのものなのだ。
だが、他人の顔色を窺い、無能な上司に苦役のポーズを差し出し、周囲に合わせて爪を隠して生きる毎日に、一体どれほどの人生の価値があるというのか。
水曜日の夕方、ため息をつきながら時計をチラチラ見つめる生活に、私たちはもう終止符を打つべきだ。 本当に有能であるならば、隠した爪を研ぎ澄まし、周囲の「ずるい」という雑音など笑い飛ばして定時に席を立て。
他人の目を人質に取られた精神の奴隷から脱出しない限り、この国で働く私たちが、本当の意味で自らの人生の主権を取り戻す日は永遠にやってこない。


