共感。 それは現代の人間関係において、もっとも重宝される潤滑油だ。
SNSは孤独を可視化する装置となり、人はその孤独を埋めるために「共感」という安全地帯へ逃げ込む。
だからこそ、現代のコンテンツは「共感を誘うこと」を至上命題としている。 「いいね」を稼げば稼ぐほど、自分が認められたという心地よい優越感に浸れる。
そして相手に共感を示すことで、自分が欲しい承認を返してもらう。 なるほど、見事なWin-Winの取引だ。
共感至上主義の時代に、本当に価値あるものは生まれるのか
しかし、本当に価値があるものは、そんな手軽な「いいね」など集められるのだろうか。
否。 真に輝くものは、いつだって「異物」として大衆の前に現れる。 本質的な価値を持つものは、安易な支持を集めるどころか、不思議なほどにアンチを引き寄せる。
なぜか。 異物は、大衆の世界観を揺さぶるからだ。 人は、自分の世界が揺らぐことを本能的に恐れる。だからこそ、異物は迫害される。
歴史を創ったものは、いつも「理解されない側」から始まる
古来より続く宗教から現代のプロダクトに至るまで、今も世界に残り続けているものは、最初は決して受け入れられなかった。
キリスト教はかつてローマ帝国で激しく迫害された異端の教えだった。 ファミコンは子供たちを熱狂させた一方で、親たちからは徹底的に嫌悪された。 家庭用ゲームの始まりは、祝福とは程遠いものだった。
真に歴史を創るものは、最初から大衆の「支持」など得られない。
「理解される」ということは、すでに周回遅れであるというサイン
「誰にでも理解される」ということは、すでにその思想やプロダクトが歴史の周回遅れであることを意味している。
理解される。支持を集められる。それはつまり、大衆の想像の範疇にすっぽりと収まっているということだ。 人間は、「容易に理解できるもの」に対して決して神聖さや畏怖を感じない。
もしあなたが「そこそこのビジネス」を目指すなら、手軽に支持されるものを追うのもひとつの道だろう。
誰にも理解されない孤独な挑戦は、「未来の証」かもしれない
しかし——もしあなたが今、「誰にも支持されない」「到底理解されない」ものを世界に撃ち込もうと孤独に抗っているのなら。 その孤独は、やがて「歴史となる」可能性を秘めている。 その道がどれほど狭く、険しく、血を流すものであろうとも。
あなたは「そこそこ」を目指すか。 それとも、「カリスマ」となるか。
さて、どちらを選ぶのだろうか。


