謙遜。私もする。 日本人にとって、謙遜とは「面倒なノイズを避けるための結界」として作用している。しかし、この「謙遜」という文化は、日本人同士の閉じた世界でしか通用しない。
外国人との関係においては、謙遜は逆に「面倒なノイズ」を呼び込む原因となるのだ。 グローバル化を否応なしに押し付けられるこの国で、無駄なノイズを呼び込まずに生きるためには、「謙遜の調整」が不可欠な時代が来ていると私は感じている。
……だが、ここまではあくまで「平和に、平凡に生きていきたい人」のための話だ。
「私なんて大したことないですよ」などと言う必要は、「成功する」ためには全くないのではないか。 「私なんて大したことないですよ」という言葉が、かえって嫌味になるほどの成功を収めたい。もしあなたがそう野心を持つのなら、どの時代においても謙遜は才能への重篤なブレーキとなる。
言霊。自分の口から出た言葉は、やがて事実になる。 「大したことないですよ」と言い続ければ、本当に大したことがない人間になっていく。オカルトチックに聞こえるかもしれないが、ビジネスの世界には案外、こうしたオカルト的な真理を信じる人間がいるから面白い。
己の知性や才能、美学を信じ抜くとき、そこに謙遜など必要ない。ただひたすらに、それを信じて進めばいい。 少なくとも「自分自身」に対して謙遜する必要など、どこにもないのだ。
私は、長年自分に対して謙遜してきた。 「これは普通だ。特別な人と自分は違う」と。
でも、どんなに成功したカリスマであっても、「心臓を抉り出せば肉体は滅ぶ」同じ人間に過ぎない。 同じ人間である存在が成功しているのなら、自分が成功しないはずはないのだ。
がむしゃらに何かを続けることをしてこなかったから、自分は成功を見逃してきたのではないか。最近はそう考えるようになった。
人は成功者になるために、己への謙遜を捨て、がむしゃらに生きるという道へ踏み出したとき、初めて何かが見えるのではないか。
これは、私の人生後半を懸けた、壮大な実験である。


