アテンション・デトックスというマッチポンプと、奪われた退屈

ビジネス構造

電源を落として旅に出ればいいんじゃないの?

週末の都心を歩いていると、少し奇妙な看板や広告がやたらと目につくようになった。

入店時にスマートフォンを鍵付きのロッカーに預けさせる「デジタルデトックス・カフェ」。 あえて携帯電話の電波が届かない山奥に建てられた「強制圏外リゾート」。 分厚い壁で外界の電波を完全に遮断し、暗闇の中でただ汗を流す「沈黙のサウナ」。

画面を見ず、通知に脅かされず、何もしないでボーッとする時間——。 そんな「沈黙」と「退屈」を手に入れるためだけに、現代人は数千円、時には数万円の札束を惜しげもなく差し出している。

メディアはこれを「アテンション・デトックス」「令和の新たなウェルネス消費」などと、いかにも先進的でスマートなライフスタイルであるかのように持ち上げている。

だが、インターネットの黎明期からこの怪物の成長を見つめ続けてきた私からすれば、その光景は滑稽を通り越して、ある種のグロテスクな狂気にしか見えない。

なぜなら、「何もしない時間」など、本来は「1円もかからないタダのもの」だからだ。 スマホの電源を長押しして切り、鞄の底に放り込んで旅に出るか、近所を散歩すれば済む話ではないか。なぜ現代人は、わざわざお金を払ってまで「オフライン」を買い戻さなければならないのか。

嫌悪されたバナー広告と、不快をマネタイズする現代の居直り

少し昔の記憶を掘り起こしてみたい。 1990年代後半から2000年代初頭、インターネットがまだ「個人の知のフロンティア」だった黎明期のことだ。

当時も広告は存在した。だが、画面のあちこちでチカチカと点滅する下品なバナー広告や、クリックした途端に無断でポップアップする鬱陶しい広告で埋め尽くされたウェブサイトは、ユーザーから激しい嫌悪を買った。「品がない」「読む側の邪魔をするな」と見限られ、誰もが即座にブラウザの「戻る」ボタンを押して二度と訪れなくなったものだ。

人間が「自分の思考や時間を不快なノイズで邪魔されたくない」と願う心理は、20年前も今も何一つ変わっていない。

ところが、現代のプラットフォーム資本主義はどう進化したか。 ユーザーの嫌悪感に配慮するどころか、暴力的なまでに凶暴化したのだ。

画面をスクロールするたびに追いかけてくる巨大な追従広告。 動画を再生すれば、冒頭で強制的に見せられる数秒間のスキップ不可広告。 記事の肝心な結論の手前で立ちはだかる「広告を閲覧しなければ続きを読むことはできません」という横暴なゲート。

人間の心理が変わっていないのに、なぜこんな下品な仕組みが罷り通るのか。 それだけではない。プラットフォーム企業は、さらに一歩進んだ究極の居直りを始めた。

「広告が鬱陶しいなら、毎月お金を払ってプレミアム会員になりなさい。そうすれば広告を消してあげますよ」

自ら町中に騒音とヘドロを撒き散らしておきながら、「静寂と綺麗な空気が欲しければ金を払え」と住民に耳打ちする。不快感を意図的に演出し、その不快感を取り除く権利を売りつける——これほど完璧で、これほど悪辣なマッチポンプが、かつての人類史に存在しただろうか。

なぜ自力で電源を切れないのか——「社会的アリバイ」を金で買う人々

「そんなに広告や通知が嫌なら、スマホの電源を切ればいいじゃないか」

正論である。だが、現代人は自分の指でその電源ボタンを長押しすることができない。 それには二つの、あまりにも根深い理由がある。

一つは、私たちが対峙している敵が、あまりにも巨大で狡猾だからだ。 シリコンバレーの巨大テック企業は、世界中からトップクラスの神経科学者、行動経済学者、認知心理学者を破格の報酬でかき集めた。彼らが研究し尽くしたのは、ただ一つ。「どうすれば人間の脳の脆弱性を突き、ドーパミンを暴走させ、1秒でも長く画面に釘付けにできるか」である。

画面を下に引っ張って更新する「スロットマシン」と同じ快感設計。 見逃しを恐れさせる真っ赤な通知バッジ。 終わりのない無限スクロール。 何千人もの天才たちが知恵を絞って作り上げた「最強のデジタルドラッグ」に、生身の一個人の意志力だけで打ち勝てるはずがないのだ。

そして、もう一つの理由はさらに哀しい。 現代社会において、「自分の意志で連絡を断つこと」が、極めて重い罪悪感を伴う行為になってしまったからだ。

仕事のチャットツール、SNSの未読、グループの連絡網。 常時接続が当たり前の世の中において、個人の判断でスマホを切ることは「仕事の放棄」「人間関係の裏切り」「社会的な死」への恐怖に直結する。

だからこそ、現代人はお金を払うのだ。 「電波の届かない宿」や「スマホを預けるカフェ」という空間に課金することで、彼らは沈黙を買っているのではない。

「私は今、有料のデトックス施設に滞在しているため、連絡が取れなくても正当なのです」という、社会に対する免罪符(アリバイ)を金で買っているのだ。

お金を払って誰かにスマホを取り上げてもらわなければ、堂々と休むことすら許されない。なんと不自由で、哀れな光景だろうか。

可処分時間を吸い尽くした怪物が、最後に売るもの

資本主義のフロンティアは、かつては地理的な未開の地だった。 それがやがて地球上からなくなり、企業が次に目をつけたのが「人間の時間」だった。

睡眠時間以外のすべての可処分時間を、ショート動画とバズと広告で埋め尽くす。歩きながら、電車に揺られながら、食事をしながら、トイレの中にいる時ですら、画面を覗き込ませる。

そうして人間の「意識」を限界まで吸い尽くしたプラットフォーム資本主義が、これ以上奪う時間がなくなった最後に辿り着いたフロンティアが、皮肉にも「人間が本来、生まれながらに持っていたはずの沈黙と退屈」を買い戻させるビジネスだったのだ。

人間から退屈を奪い、過剰な刺激で脳を焼き尽くし、メンタルを壊しておいて、今度は「デトックス」という名の解毒剤を高値で売りつける。 毒を盛る側と薬を売る側が同じ顔をして微笑んでいるビジネスモデルに、私たちはまんまと踊らされているにすぎない。

画面を伏せ、窓を開けよ

私たちは、いつからこんなに「退屈」を恐れるようになったのだろう。

かつて、旅とは目的地に着くことだけではなかった。 電車の窓から流れる見知らぬ景色をただ眺め、退屈に身を任せ、ぼんやりと物思いに耽る時間そのものが、心を調律する旅の本質だったはずだ。

高価なリトリート施設に泊まる必要などない。 電波遮断サウナに数千円を払う必要もない。 自分の生活の主権を、シリコンバレーのアルゴリズムにこれ以上売り渡してはならない。

自由は、最初から私たちの手の中にあるのだ。

5分からでいい。 パソコンとスマホの電源を落とし、窓を開けて風に当たれ。

そこにある冷たい秋の夜風と、静寂の気配こそが、いかなる資本も奪うことのできない、あなた自身の人生なのだから。